東京彫金
とうきょうちょうきん
- 金属をキャンバスに、日本画を描き出す。
- かつて武士の刀剣や甲冑に用いられた彫金の技は、18世紀頃、日本画の筆勢を彫金で再現するために生まれた片切彫刻によって進化を遂げた。これによって彫金は煙管や根付けといった庶民の日用品に浸透し、その技術は1885年のドイツ・ニュールンベルグ金工万国博覧会で高い評価を得た。片切彫刻とは、鏨の刃の片側を使った日本独自の技法である。金属に対して刃の片側を斜めに打ち込むため、彫り跡に深い部分と浅い部分の差が生じる。その差は彫り跡に陰影をもたらし、日本画に用いる筆のかすれ具合を再現する。大胆に余白を生かした構図、絞られた色数もまた、日本画の美しさを追い求める。完成品では日本画と彫金という異なるジャンルの芸術が融合し、職人が目指す美の競演が実現される。年数を経るごとに変化する金属の質感は味わい深く、指輪やペンダント、着物の帯留め、金属製オイルライターなど、長年にわたって製品を愛用する人は多い。職人は購入者との付き合いを大切にし、オーダーメイドはもちろん、生涯にわたって製品の修理に応じている。
主な製造地 | 台東区、文京区、足立区ほか |
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指定年月日 | 昭和63年7月29日 |
伝統的に使用されてきた原材料 | 金、銀、銅及びこれらの合金 |
伝統的な技術・技法
- 地金取りは、地金に罫書きし、台切り鋏を用いる。
- 鈍(なま)しには、タヌキふいごを用い、地金が赤くなるまで焼き鈍し、軟化させる。
- 下絵書き・本図書きは、水洗いした地金に鉛筆で下絵を書き、その上から雁皮紙又は蝋紙を当て正確に書き写す。
- 彫刻には、その技法に相応しい鏨(たがね)を用い、手作業で行う。
- 仕上げには、名倉砥(なぐらとぎ)、重曹を用いる。
沿革と特徴
金属工芸、とりわけ彫金の技法は古墳時代後期、渡来工人によって伝えられた。
今も残る冠帽や飾沓などの装身具、馬具などを見ると、この頃には毛彫や透彫などの基本的技術が定着していたようである。
平安時代も終わりに近づき武士階級が台頭すると、彫金は刀剣・甲冑・金具に装飾として施されることが多くなった。室町時代に現れた後藤祐乗(ゆうじょう)は彫金中興の祖と呼ばれ、格式を重んじる作風が”家彫”として後世に残っている。
江戸時代、太平の世が続くと刀剣は実用品から意匠の面白さを競う鑑賞本位のものへと変化し、この時期、多くの彫金職人が現れ、精密な小型の彫刻製作の技術が完成した。
後期には、公家出身の横谷宗珉(よこやそうみん)が墨絵の筆勢をそのまま鏨で表現した片切(かたきり)彫刻の技法を生み出し、その斬新な作風は宗珉自身が武家よりも町民たちとの交わりを好み、野にあって腕をふるったことから、京都風の”家彫”に対して、”町彫”と呼ばれた。
これは刀剣ばかりではなく煙管や根付けにも用いられ、新しい流行を生み出した。明治維新の廃刀令で彫金の仕事は少なくなった。
しかし、従来の技術を応用して新時代の生活に合った作品づくりに転換し、政府の産業振興政策もあり、ドイツ・ニュールンベルグ金工万国博覧会(1885)に出品された作品は好評を博した。
金属の加工方法は、大きく鍛金・鋳金・彫金に分けられるがこのうち彫金は金属加工の総仕上げともいえる。江戸時代に生まれた“町彫”の技法を今に伝える東京彫金は、鏨ひとつで丹念に彫り、様々な模様を描き出し、さらに独特な着色方法とあいまって、洗練された味わいを持つ作品が誕生する。
連絡先
産地組合名 | 日本彫金会 |
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所在地 | 〒177-0032 練馬区谷原3-15-4 |
電話番号 | 03-3381-9859 |